藤間蘭黄  日本舞踊の世界

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踊りには「間」が大切である。

当たり前のことだが、
日本舞踊の場合、その「間」を決めるのは邦楽。
三味線音楽である。

多くの場合、そこに「歌」が付く。

これが曲者である。

初心者の場合、この「歌」を聴いてしまう。
決して悪いことではないが、
これでは「間」は取れないのである。

では、何を聴くか。

三味線の旋律、リズムである。

踊りの「振り」は、概ねこの三味線に乗って付けられる。
もちろん、歌に乗ることもあるが、
歌は、その振りの意味するものを限定する役割。
つまり、歌の意味を振りであらわし、
振りのリズム(間)は三味線で決められる。

その三味線の旋律。

これを聴きとる必要がある。R
by rankoh-f | 2009-10-28 23:39

解説

プログラムの解説。

誰にでも分かりやすく、
内容を説明し、
背景を示し、
見どころを言う。

思いが溢れすぎてもいけないし、
言葉足らずはもっといけない。

なかなか難しい。R
by rankoh-f | 2009-10-24 23:54

あすなろう

11月7日に花柳基と「あすなろう」を踊る。

昭和の作品。
女性コーラスが特徴の「大和楽」である。

木曽の五木のひとつといわれる「あすなろう」。
「明日は檜になろう」と頑張る若木を擬人化して踊る。

藤間藤子振付。

二人がイキを合わせるべく
稽古に励む。R
by rankoh-f | 2009-10-23 23:03

ファウスト

今回の新作「禍神」。

原作はゲーテの「ファウスト」である。
この原作は、非常に込み入っており、
難しい。

ただ、断片的には舞踊化したいと思わせる場面が沢山ある。

悪魔に魂を売る博士。
狂う女。
魔女たちの嬌態。
ダイナミックな戦乱。
美しく奇怪な神話の神々…

ここに嵌った。

そして苦しんでいる。R
by rankoh-f | 2009-10-22 01:05

山姥

「山姥」。

音を聞くと「ヤマンバ」=恐ろしい鬼女。

字を見ると、山の姥=老女というイメージ。

伝説を聞くと「金太郎の母」=老いてはいない。

何ともとらえどころがない。
どれもが間違っていないし、
どれもがそれだけではない、というイメージである。

「四季の山姥」。

どんなイメージを構築していくか…

課題は多い。R
by rankoh-f | 2009-10-21 00:40

今日も一言3

踊りは難しい。

若くては決して出せない「味」があるのと同時に
若くなくては出来ない「技」もきっとある、と思っている。

しかし、

歳をとりさえすれば「味」が出て、
若ければ「技」を極められるか、というと

決してそうではない。

やはり「努力できる才能」なのだろうか。R
by rankoh-f | 2009-10-20 00:53

今日も一言2

昨日の「天才」。

やはり
「天才」なら、何をしてもよい、人間性は問わない、ということではないと思った。

「本当に選ばれたほんの一握りの天才」だからこその
人間性があると思う。

むしろ「天才」を標榜する人ほど、
「だから傍若無人でよいのだ」と振舞っているような気がする。

もしかすると、
そうした意味で本当の「天才」はいないのかもしれないとさえ思う。

ただ、『「努力する才能」を天から与えられた人』というのは確かにいる。

それが「天才」なのかもしれない。R
by rankoh-f | 2009-10-19 00:43

今日も一言

舞踊手(ダンサー)として育てる前に、
人間として育てる。

至極当たり前ではあるが、

大切なことだと思う。

どんなに良い舞踊手でも、
人間としていかがなものか、ということは
ありがちなことだからこそ、

この言葉は、「師」であるためには大切なことである。

「人間として…」ということを無視しても許されるのは、
本当に選ばれたほんの一握りの「天才」だけだと思う。

もちろん、自ら「オレは天才だから無視してよい」と言うことではない。R
by rankoh-f | 2009-10-18 23:58

プロって…

私らはプロになるのじゃない、本物にならなアカン!

素晴らしい言葉を聞いた。

プロでなく本物。

確かに日本舞踊界にも大多数の「レッスンプロ」と、
少数の「ステージプロ」はいるが、

その中のどれほどが「本物」か…


本物を目指し、本物になる。R
by rankoh-f | 2009-10-17 23:34

古典2

「古典」は基本である。

小さいときから「古典」を学び、
「古典」の動きを身につけてきた。
「古典」=「日本舞踊」と言えるほどである。

しかし、表現は進化する。

新しい表現方法を探るまでもなく、
「古典」を表現するその我々の体(と頭)が、すでに現代なのだ。と思う。

「古典」の基本を充分に体に叩き込んだ後にこそ、
新しい「何か」を産み出す力が湧くのだ。と思う。R
by rankoh-f | 2009-10-16 00:22