藤間蘭黄  日本舞踊の世界

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講義2

第一週目の講義を終えた。

その内容は、

まず、日本舞踊とは何かを平易な日本語で説明する。
そして、「傀儡師(かいらいし)」という演目を例に取り上げ、
振りの解説を交えながら実演をするというものである。

「日本舞踊とは…」
これは簡単な様で難しい。
母胎となった歌舞伎との関係ひとつとっても、
詳しく説明したら90分の講義一コマかかってしまう。
さらにその先行芸能である能楽、雅楽、そして神楽や様々な民俗伝承芸能、茶道、華道、武道まで言及するとなると、もはや一年掛りの日本文化芸能史の講義である。
これを、講義の序盤約15分間で説明しようというのだから乱暴な話しだ。
そこで、考え出したのが、
「日本文化の集大成」
という説明。
「古代から現代までの日本の芸能を洗練された形で舞台で見せる」と補って、
自ら踊って楽しむ、或いは神に捧げる芸能と区別した。

そして「傀儡師」。
全体を、流れに沿って5つほどのパートに分け、
筋の解説と共に実際に動きながら、個々の振りの意味を解説した後、
音楽に乗せて踊って見せる。
これを5回繰り返す。
こうすると、全編約25分の演目を、飽きずに見てもらえる。
そして、最後に次週に繋げる予告として、
扇子の「見立て」について少し話して、丁度時間となった。

講義を終えて、片付けていると、一人の学生が、
「質問してもいいですか?」
何かと思ったら、
今の「傀儡師」はよくわかったが、日本で普段上演する時もこのような解説付きで行なうのか?
という質問。
普段は、解説はせず、ただ踊りを見せるだけです。
と答えると、「日本人はそれで全部わかるのでしょうか」
という。
確かにプログラムに掲載するほどの解説ではわからない。

ではなぜ観客はそれで納得するのか。

極論を言うと、それは、
「見る人」=「踊る人」だからなのだろう。
踊る人は習う際に凡その振りの意味は学習する。

だから、日本舞踊を「見る人=踊る人」は解説がなくても「解る」。

と、いうことは日本舞踊は「舞台芸術」のような顔をして、
実は盆踊りと同じ「踊って楽しむモノ」になってしまうのか。

そこに大きな落とし穴があるように思われる。
つまり、日本舞踊、特に古典舞踊を習う人が減少している現在、
見る人を踊る人に頼っていては先がない、ということ。
「純粋に見る」人が育たないと、舞台芸術としての日本舞踊の未来はないということである。

「海外公演だから」とか、
「留学生に見せるため」とか、
「舞踊の研究のため」とか、
そういう時ばかりでなく、

見たことのない日本人に見せる普及公演の際にも
こうした丁寧な解説付きの上演形態が必要なのだろうと思った。R
by rankoh-f | 2007-12-13 01:46